美人

最近、鮮烈に思い出された美人の思い出。
甲斐駒ケ岳の麓、有名なモルトの産地でもある白州でアートフェスティバルが行われていた時分、麓の砕かれた岩は当にお白州のようで、青緑色に澄んだ清流を湛えた神社周辺の河原を、一同で訪れた。ドイツ人招聘女性アーティストが、美しい河原をしばらく眺め、英語であなた方の習慣として気分を害されないか真摯に断りを入れ、2~3秒で全ての服を脱ぎ棄てて冷たい清流に頭から飛び込んだ。均整の取れた体が清流にたゆたう様は、ただ、ただ、眩しかった。一同、あっけに取られ魅了され(負けた気がした。)、正にノックアウトされたのだけど、いやらしさの欠片も無い、天晴な行動だった。

結局、かっこいい女性、かっこいい男性というのは、姿かたちだけではなく、その人の振る舞いや姿かたちに現れる内面を持っている。月並みな落ちだが、それはその人が持っている美学かもしれない。(女性の例えではないが)男の美学、ダンディズムというような。

ダサい大人には成りたくは無いと思いつつ20年上の月日が経ち、美学を持ち続けていられているか自問もする。身だしなみや体形が徐々にだらしなくなって危機感を感じてしまうのだが、この場合それが「どうでもいい。」と思った瞬間そうなるという、心理的なところが恐ろしい。しかし少なくとも、子供たちには私利私欲に走る、ダサい姿は見せたくないとは思っているのだが。それにしても、コネコネの私利私欲ばかり目にする昨今、ダサいのがいっぱいだ。ここに足りないのは、道徳ではない。

[PR]

# by isaotoshimori | 2017-04-09 13:18 | アート

自分らしさ

自分らしさ、とは何でしょうか?
誰と比べて、そう判断するのでしょうか?
それとも自分だけで、納得するものでしょうか?

アイデンティティーという英語があります。
例えばアイデンティティー・クライシスというと、自分が崩壊しそうな危ない状態、絵で例えるとムンクの「叫び」なんかがぴったりな状態でしょう。日本語になると、自己同一性という難しい言葉になります。以前、精神分裂病と言っていたものは、現在、自己同一性障害という言葉に代わりました。

自己同一性は、既に得ているものなのか?それとも自分で獲得するものなのか?私は両方あるものだと思います。自分であるために、自分の必要なものを探して、自分を満たす、ということだと思います。世界に一つだけの花であるけれども、咲くためにはそれなりに頑張らないといけない。自分で探す、頑張る、ということは、自分が主体だということです。

アイデンティティーを得るとは、自分らしく生きて行くと言い替えてもいいのではないかと思います。生得的に与えられたものを認めるのは、易しいことかもしれないですが、自分がどう生きたいかを追うことは易しくはない。むしろ大変なことですが、でも自分の人生は重いものです。

更に私たちは、その判断を自由にしていい環境に生きている。自分が言葉にし行動してもいいと認められています。自分らしく生きる権利を持つ、先人たちの、そう生きられなかった苦労の上に出来た、そんな素晴らしい環境がある。先人たちは、私たちを応援してくれているはずです。

私は教えもしていますが、教育に関しても、他から与えられるものでは無く、自分が主体的に身に付けていくものだと考えています。だから生得的に与えられたものだけでいい、世界に一つだけの花だからというのは、教育ではないと思いました。

そしていくら自由だからと言って、人を害していいはずがない。いじめは昔からありますが、それが当たり前になっていないか心配です。いじめられる側が非人間的扱いを受ける問題もさることながら、いじめる側に回る人間は、まったく自分を大切にしていないという大問題があります。人の不幸を楽しむことが自分らしさであるはずがない、自分らしさが人を不幸にするという話にはならない。訳もなく追随して振り回され、自分の幸福を追求出来ないことは、はっきり言って不幸だ。いじめに加担することに時間を費やすのは、最も無駄な時間の使い方です。

少しでも自分らしさを伸ばし、幸福になる。だから自分が主体であり、自分らしさを追求することは、大切な考え方だと思います。
[PR]

# by isaotoshimori | 2017-03-19 11:32 | 日日に

相模原の事件

相模原の事件は、長男が発達障害を持っている我が家族にとっても、衝撃的だった。妻が心を痛めていることは、憤りだけではなく、世間に迷惑をかけ頭を下げながら生きていかなければならない、といった無言の低下圧力にもなっていた。

なぜか?世間には本音と建前があり、ほとんどの人間は実は障害者を迷惑な存在だと思っている、それが現実だと彼女は言う。これは疑心暗鬼だろうか?私も、世間ではそのような考え方は根強いと思っている。今、通っている保育園の対応からさえ、その空気が読める。しかし私は、まったく卑下する必要は無いと思っている。これは人権の問題より前、命の問題だからだ。

加害者は、未だに反省の弁を持たない。日本のためにしたことだと主張している。いかなる理由があろうとも、他の命を排除することは正当化出来ない。行き過ぎた自己愛、肥大した自己肯定、傲慢という言葉はまだ生易しい。自らは優れ、他は劣っているとし、排除するべきだという論理は、自らが神だ、と公言するに等しい。異常であるか、非常に幼稚であるか、どちらかだ。

被害者遺族が書いたコメントの中で、気になる言葉として、この国は優性思想が根強く、、、であった。優性思想を持つ、それは劣ったものは迷惑な存在であるとすることと同義だ。人間、優劣、損得、比較合理から生まれる意識は根強い。だから、仕方がないというのではない。

踏み込んで言うならば、優性思想は劣等意識とも分かち難く結びついている。優性思想を持つ人間は、裏腹に強い劣等意識を抱える。その捻じれた関係から、優性意識はバイアスが強くなり、現実を直視できなくなる。そして容易にバランスを崩し、モンスター化する。
自己愛、自己肯定とは誰もが持っているもので、そのようになる可能性は誰にでもあるという警鐘でもある。他に対する攻撃性は、劣等意識の裏返しと言えば、他の悪口を言ってすっきりしている人はドキッとするのではないか?我々は皆モンスターを飼っているという事実と同様、物事には両面あり、一面に偏るというのは、実は弱いという事実がある。

偏りは、どこにでも転がっている。
匿名ネットサービスに対する圧力は、内部告発を押さえこむためでもあるだろう。安保法案を推し進める背景は、関連産業が大きく成長することや利権もあるのだろう。円安だけがいいという訳ではないそうだが、円安誘導が続き借金は莫大に増えた。そもそも母数が減少しているのに、変わらない経済成長という目標自体が偏っていると言えないだろうか。私が最も大きな偏りと思えるのが、戦後レジーム脱却として、敗戦劣等国から強い優性国へと急展開する思想。
大きな話のようだが、個人の意識と集団の意識は地続きだ。この国は優性思想が根強く、、、これはそういう意味でも、とても気持ちの悪い感覚を受ける。

優性思想は、抜いた刃で、他の命を排除する。こういうことが事実起こったとも言えるだろう。
多くの場合、排除は弱きをくじき、自らの弱さを穴埋めする卑怯。どんなに論理武装しようとも、排除される側に自分はいないからだ。自分を棚上げにする限り、現実の直視は出来ない。だから、排除する人間より、受け入れる人間の方が強い。弱さを隠すために虚勢を張るより、認めて反省できる方が真直ぐ歩ける。

いずれにしても、偏ったものには必ず反動がある。命の軽視は、自らに向かう。
[PR]

# by isaotoshimori | 2016-08-27 11:29 | 日日に

兄の死

上手くいったら自分の力、上手くいかなかったら人のせい、というのが人の性。人の言うことが聞こえない、頭を打ったのは自分だった、というのが世の常。

先日、兄が亡くなった。連絡があったのは骨になってからというのは、何ともやるせない。話す機会も得られず、どうしても彼の人生を反芻してしまう。若い頃からやんちゃで、よく苛めらた記憶もある。東京で行かなくてもいい所に行き、酷い目に会って発症。妻子を持つも破綻、ことある度に統合失調症を悪化させ入退院を繰り返し、終に帰らぬ人となった。彼は満足に死んでいったのだろうか?

彼はその病状から、自責反省といったところから少し離れられたかも知れない。自責反省は、痛みがある。そこから離れたとしても、理性がある限り「これでいいのか?」という声から耳を塞げないから厄介だ。そのような葛藤から離れて、国に金銭的に守られ、病院のスタッフにも恵まれ、彼が案外安らかな後半生を送れたのだったら、少しは幸いだ。希望的観測に過ぎないが、冥福を祈る。
[PR]

# by isaotoshimori | 2016-03-19 11:29 | 忘れえぬ人々

榎倉康二関連企画展感懐

榎倉康二氏に縁のある人々が集い、展覧会やシンポジウムが開かれたわけだが、色々な思いが沸いてくる。

「梅の小屋」通信、榎倉康二の文章を抜粋して載せる作業を続けるかどうかも、迷いが生じてきた。通信の発端は、太田三郎という美術家がFBで「もの派」のパロディー「のも派」なるものを始めたのがきっかけだった。犬の小便跡や、農作業小屋のビニールシート、植木鉢の形にひっくり返った土の塊などに「もの派」をなぞらえ、それなりに毒の含まれたものだった。世間にそれほど知られているわけではない「もの派」がますます誤解を受けないために、私も何かしなければとそれから思い始めた。それは私の師榎倉康二氏が一応「もの派」の作家とされているためで、榎倉氏が誤解を受けることは私にとって面白いものでは無い。榎倉氏父母が住んでいた「梅の小屋」管理者として、氏の言葉をFBで、次には梅の小屋HPで細々と語録を進め始めた。

そんな経緯だが、太田氏うんぬんどころではなく、美術界というもの、世代間のコミュニケーションも一筋縄ではいかない。榎倉氏も他大学どころか、藝大内部でさえ反発する人が多かった。トップランナーの辛さか、正直な人柄と発言を信頼する人も多い反面、嫉妬する人間も多いのが実情。また、今回改めて感じたのは、世代間の感覚の違いだ。氏の生前の姿を記憶している人は、38歳以下ではほぼいない。現代の20代は、デジタル環境を身体的に受け入れてきた世代だ。彼らはその当時の「もの」「物質」「空間」「世界」をどのように咀嚼するのだろうか。

語録だけ見たところで、誤解が広がるだけではないか?という思いが湧いた。作品が解るということは、検索で出てきた画像を見ることでは無くて、実物を空間で見ることである。つまり作品から直感で受け取ったものが本質であり、それ以上に氏を語れるものはないのだ。語録を続ける私にとっても、それほど報われている気がしない。良くて「危篤な人」、売名行為と揶揄する人もいるだろう。私自身も、自分の専門として作品で意思を訴えていく方がいいのでは?と思うときもある。

それでも私はジャーナリズムやドキュメントの力を信じているので、語録は無駄なものとは思わない。「梅の小屋」が無くなった時、氏の語録がHPとして「梅の小屋」の記憶になるかも知れない。一筋縄でいかないのだから正攻法もなかなか通用しない、ということもわかってつもりだが、なんだか迷いを吐露した。もっと私の意思を発言するべきだったのかも知れない。
[PR]

# by isaotoshimori | 2016-01-16 15:05 | アート