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環俗する

この度、浄土真宗大谷派-本龍寺、浄土真宗の碩学、本多弘之ご住職の寺僧から環俗する。私は、僧侶らしいことは何もしない「なんちゃって坊主」であるし、寺に伺うこともままならないため、僧侶を続けることについてご相談申し上げたところ、ご住職も受け入れてくださる。元々、自分自身がどうしても納得したいことを理由に、無理やりご住職にお願いして寺に入れていただいたた「なんちゃって坊主」なので、非僧非俗なんてかっこいいことはとても書けない、元来俗人なんだけれど。快く受け入れてくださった氏の、温情と懐の深さに感謝申し上げると共に、最初から最後までわがままを通してしまったことを、申し訳なく思っている。

発端は書かない。ただその経緯で、オカルトと宗教との明確な違いを、ご住職からつまびらかにして頂いた。私は、オカルトが嫌いだ。
家族、近親者、仕事、私も悩みは尽きないし、中にはどうしようもないこと、受け止めるのが難しいこともある。折り合いをつけるか、戦い続けるか、自分の声が聞こえてくるまで、自分の出来ることを淡々と行うことにしている。疑ったり抗ったり落ち込んだり、その内的葛藤が自分の血肉になることは事実だ。自分より外に求めても、解決にはならなかった。今後私は、一介の美術を行う人間として生きていく。

# by isaotoshimori | 2012-04-18 13:53 | 日日に

十日町市松代と小豆島町神浦と岡山市浜のマンション 地域の財産とは?

それぞれの地域によって事情は全く異なる。私が関わった地域で、面白いほど違いが顕著な例があったので徒然と考えてみた。結局のところ、地域の発展や幸福度は、地域の活力や共有財産にかかっているのではないか。

十日町市松代
1999年以降現在まで「大地の芸術祭」で関わり続けている地域。トドノツマリが妻有の語源になったように、深い山と豪雪に冬の間の5ヶ月間閉ざされていた雪国の歴史があり、現代アート屋外大規模美術展のさきがけとなった「大地の芸術祭」にかかわった年月が、はからずも12年の定点観測となった。
周囲から距離を置いてゆっくりとした歴史を刻んできた地域に、現代アート美術展が登場した時、松代の方々にとって大変なショックだっただろう。反対派、賛成派含めて、それこそ蜂の巣を突付いた様な大騒ぎとなった。
そんな状況から、「大地の芸術祭」は始まり成功し続けた。成功の理由は、ブルドーザーのように力強いプロデューサーの牽引力だったと思っている。広報に力を入れ、多くの来客が詰め掛け、反対派もいつしか包み込まれ、これを契機として町は大きく様変わりした。
国道は整備され、国道沿いには旧街道から個人商店が軒を連ね、地域初めてのコンビニエンスストアもオープンした。旧街道でまとまっていたコミュニティーは崩れ、旧街道の商店街は見違えるように寂れた。現代アートの広がる地域は、国道と鉄道を挟んで、地域の集落と分断しているため、観客の導線も地域の経済圏として繋がってはいない。地域の祭りなどの文化と、現代アートも隔たりがある。
急激な経済やコミュニティーの変化が生み出した分断は、今後プロデューサーサイドからも融合を図られるだろう。幸いにも、当初から「現代アート」を支え続けてきた地域の人々が、「現代アート」の理解者、応援者となった。突然降ってきた新しい文化は、地域の共有財産として理解され、誇りと成り始めている。そのような地元の方々の発言や行動力によって、融合が加速されていくはずだ。

小豆島町神浦
小豆島三都半島突端、小豆島を左向きの牛に例えると、前足の先に神浦地区はある。初めて「小豆島アートプロジェクト」で訪れた際に感じた印象は、昭和に戻ったような懐かしい集落のたたずまいと、自然がそのまま残った美しい岬と、映画の舞台になりそうな神秘的な雰囲気だった。過疎や高齢化はここでも問題だが、兵左衛門太鼓、小豆島随一の亀山八幡大祭への船での太鼓奉納など、素晴らしい地域の共有財産がある。
「小豆島アートプロジェクト」でここに滞在した藝大生達は、「現代アート」という全く未知の分野にもかかわらず、地元の人々特に元気なご老人達に歓待され、制作に滞在生活に大変にお世話になった。ツマリの最初と似たような状況だが、ここでは「現代アート」に対するアレルギー反応は無かった。直島や瀬戸内国際芸術祭から「現代アート」に馴染んだせいもあったのかもしれない。が、素晴らしい地域の共有財産が既にある誇りとまとまりが、新しいものを受け入れる懐深さになっているとも感じた。今後地域の人々が行政に代わって、「現代アート」を地域の新たな共有財産にしていくために、「発言するアートファン」として積極的に関わってくださると、新しい状況が開ける。状況をツマリの12年、直島の20年と比較するつもりは毛頭ない。地域の人々と、現代アートが幸せな出会い方をしていってくれたらと期待する。

岡山市浜のマンション
現在私が住んでいるマンションは20数年前私が18歳まで住んでいたマンションであり、ひょんなことからまた住むことになってしまった岡山で一二を争う築年数の多いマンションである。
当初は岡山のマンションでは先駆け的存在で岡山の名士も多く住んでいたが、現在は高層マンションも市内に建ち並び、周辺は大きく変わった。内部事情も大きく変わった。賃貸が4分の1、高齢化も進み、老朽化に伴う再整備も多くなった。コミュニティーも成り立たなくなってきて、マナー違反も横行している。
現在縁有って理事会にも所属してしまった。判ったことがたくさんある。不正や癒着の醜聞も聞こえてきた。「どうせ借りているのだから。」「どうせ長くは住まないから。」と個人の都合ばかりを優先することは、モラルとモチベーションの低下となって、理事会の運営に影を落とす。
ここでは何が共有財産となるだろうか?経済価値がそれほど多くなくなってしまっても、住み続ける多くの人々にとっては、共有財産の見出すことは重要な問題だ。共同住宅の場合は共同意識が無ければ、問題への対処、未来への備えが出来ない。理事会は共同意識、コミュニティーそのものである。
中古老朽マンションは全国的な問題だろうし、コミュニティーが維持出来ずスラム化してしまったマンションもあると聞く。そして今ぴかぴかのマンションだとしても、いずれは古くなって経済価値が下がる。
では長く住み続けるには?経済価値=共有財産という判断だけでは、価値が下がる度に移り住むことになる。長く住み続けるためには、経済価値以外の幸福度が必要だということだ。改めてコミュニティーとして、無形の価値=共通財産を創造していかなければならないということになる。
光明が無い訳ではない。住人の奥様達が、茶話会やガーデニングのサークルを作って、子どもや高齢者達のコミュニティーを作ろうとする動きだ。

地域の活力や共有財産は、地域の住民によって育まれる。住民の自治、誇り、共同意識によって培われる。自分都合だけでは、口だけでは、人は幸福になれないという結論になる。我々は何のために共に汗をかき、何を守っていくべきものなのだろうか?

# by isaotoshimori | 2011-12-08 09:17 | 日日に

「小さなうそ」、「大きなうそ」

私たちは、「小さなうそ」をつきながら生活している。おべんちゃら、おためごかし、おあいそ、ごまかし、世間体を伺う、体裁を繕う、強がり、はったりなどなど。そう、「うそも方便」の通り、適当に突き当たらずやり過ごすことも、生きていくためには必要なことだろうか。「そんなもんだ。」と思いながら、いつしかうそに慣れて行き、うそだということを忘れてしまう。そうなると、これは「大きなうそ」ということにならないだろうか?人によっては、そのうそをそのまま墓まで持っていく人もあるだろう。何も事件が起こらない限りは。

東電関係者の心の中で、「従ってきただけなのに。」とか「どうして自分の代で、こんなことが起こってしまったのだろう。自分は運が悪い。」とか、思っている人は実に多いだろうと想像する。思っていても、決して口に出来ない言葉だけれど。また、関係者の中で今までに問題点を指摘してきた人もあっただろうが、そんな人は周りから「うるさい」「うっとうしい」とか、ひどい場合は「K.Y」「社会不適合者」とかまで言われただろうと想像する。事件が起こってしまった限りは、そんな踏ん張りも報われようもない。

うそは、見破られると痛い。「大きなうそ」になるほど、痛い。指摘された側の反応は、大体は大激怒!指摘する側が、上司だったり社会的地位のある人だったら、指摘できるものではない。自分より年配者の場合「心の中では確かにそうかもしれない。」と思っていても、素直に認めることはないだろう。私も(後になって)しまった!と思った経験がある。
しかし、対外の場合世の中を動かしている人は、権力者、上位の人、年配者である。ならば、もし間違った状態の中にあっても「意見」することは出来ず、今後も事件が起こるまでどうすることも出来ないのだろうか?

海外の方々から、日本人の礼儀正しく忍耐強い姿勢に賛辞が送られた一方、決定力の無さ、対処の遅さが未だに問題となっている。なんだか、「うそから出た誠」がありそうだ。「親方、日の丸」「長いものには巻かれろ」式に、自分を他人に下駄を預けてしまう日本人の体質、滅私奉公式に集団に従ってしまう体質。他人に下駄を預けてしまうと、責任の所在は不明瞭だ。決定力はない。滅私奉公式に従ってしまうと、利害対立する集団同士の縄張り争い、けんかだ。意思の疎通が上手く行かない。部署が繋がらず、全体の問題に対処出来ない。下駄預けタイプでも、滅私奉公タイプでも、極端に振れた振り子、揺らぎが無い。揺らぎが無いことは、バランスが悪いことだ。安定は時として、硬直になる。頑迷になる。

問題なのは、立場の違う意見を受け入れられるだろうか?「うそ」を指摘されても、柔軟に対処に回れるだろうか?という点だ。「そこ、ちょっと違うんじゃない?」「ほんまやな~。」と軽く済めばいいが、立場や意地、プライドなんやかんやあって、結局曲げられなかったりして。特に集団では、立場の違いを受け入れることは、難しいことかもしれない。しかし我々は事件が起こるまで、危機意識を持てない、学習しない、ではもはや済まない。

曲げられないところを曲げるには?有識者会議などの外部スーパイバイザーや、コンサルティングを入れる方法。しかしそれは許容力のある集団の場合。でなければ、集団で隠蔽に回る。そうなればオンブズマン、告発、けんか腰に「どうにかしろ!」と迫る外部圧力で受け入れさせる方法。
その中間の、価値観の違いを超えられる方法は無いのだろうか?例えば、有識者を中心とする世界ネットワークや市民団体で、良心的多数として穏やかに圧力を与えるような。

全員個人の立場に戻ってしまえ!という極論だと、余りにも簡単な話だが説得力はある。個人の立場は、個の場合、家族の場合、仕事の場合と、微妙にはずれ、よく考えると矛盾に付き当たる。矛盾を突っ込まれて怒らないで居られる自信は私には無いが、集団からふと自分に戻れば、疑い、揺れ、迷う自分がいる。不安でいやなものだ。それを取り繕い、カッコつけるために、人はうそを付くのでしょう?しかしそんな自分を認めたほうが、「大きなうそ」に取り込まれるより、ましじゃないか?下駄預けでも、滅私奉公でも、自分が刷り込んだ「集団」は、そんなに自分を大切に思ってくれているだろうか?疑う、揺れる、迷うという個人は、公平で優しくなれる。もちろん優しく公平なだけでは、世の中を生きていけない。でも強がり、はったりという「うそ」で自分を強く思わせるより、弱い自分を認めたほうが、よほど強くなれるはずだ。立場の違いの前に、共通の個という解があるという極論だ。

アーティストは、正直でうそを付かない人間?そんなことは無いと私は思う。うそを付かなければ、世間と付き合って食べていけない。
では、アーティストはうそつきばかりか?アーティストは個を前提とする。うそと付き合いながらも、正直者で、自分を掘り下げて矛盾に悩む「小さなうそつき」であって欲しい。個を掘り下げて、矛盾と葛藤しリアルに到達する。矛盾がリアルなのではなく、葛藤している姿勢がリアルになる。そこを通過した作品だからこそ、リアルに感じられるものになる。そんなアーティストは時として、「大きなうそ」を喝破して、偉い人を怒らせたり、変わり者扱いされたりする。だがリアルと受け止められた作品は、時代に残っている。
自分がそうありたいと、おこがましい事は言わない。だが、うそとリアルの間を、アーティストは揺れ動いていることが必要だ。そうじゃないと、いつしか「大きなうそ」を付いてしまう。「大きなうそ」は、リアルとは相容れない。

# by isaotoshimori | 2011-11-07 15:55 | 日日に

辺見庸 著「水の透視画法」の衝撃

これは、現代の「徒然草」だろうか。全体を覆う、無常観と滅びの予感。坦々と綴られるエッセイだが、時事問題と絡めて丁寧に描写された「日常」は、重い。

辺見氏は、長く共同通信社で働き、中国ハノイなど駐外経験も豊富で、退社後執筆活動に専念された。現在、氏は半身不随で病を併発した体を克して、この本を命を削るように、というより骨を削るようにして執筆されたように思える。
辺見氏の直観力、デリケートな感能力は、ささやかな出来事から背後に大きく広がっていく現実のリアルを焙り出していく。氏の言葉に対する態度は厳密で、一語一語を練り上げる。1人も物書きとして、1人の読者に届けばいいという。一見独りよがりに思われそうだが、作者と受け手の間に入る作為の、一切に妥協しないという厳しさだ。時間を掛けて一つ一つ、正直に、負の部分も当然のように正視し向き合う、そんな文章だった。

小豆島AIRアートプロジェクト「Story of the IslandⅡ展」終了後、何かもやもやとしたものを抱えていたのだが、この本を読んで腑に落ちた。世の中が軽いのだ。しかも粘りつくような半透明の物質が、人々の間に垂れ込め、お互いの姿を見えにくくしている。施政者も、大学も、そして作家さえも。

出展者の、教授の言葉を借りれば「事件」を起こすことに、世の中は一生懸命だ。状況にあわせ、アレンジし、結果を求められる。中身の熟議反省も充分でないまま、次へ次へと事を進める。異論を無視し、利益にならないことは切捨て、対立する場合はすぐに攻撃を行う。そんな中、作家でさえ状況にあわせるだけで一生懸命、実は作家として重要な精神に空虚が広がっているのではないか?これは衝撃だ。「水の透視画法」は世の中とは対極的な作り方が行われている。だから私を含めて、空虚は事実だ。

我々は、状況に対処したり結果を急ぐ余り余裕をなくして、深く掘り下げたり丁寧に積み上げたりすることが出来なくなってきたのか?村上隆氏のスーパーフラット、その空虚やニヒルが震災以降いまだにもてはやされるのは、なぜか。空虚やニヒルが現実のものとなった今でも、である。小豆島AIRアートプロジェクト出品作家達は準備時間が少なかったためか、作品記録、舞台セット、自身の劇中劇となっている。状況から、肉体を介在させずに組み立てるとこうなりがちだ。シュミラクルの功罪でもある。方や、虫と自身の死を突き合わせた佐藤氏の作品は、美しいものとなった。

「水の透視画法」のように、丁寧に自分自身を、日常を掘り下げていくべきではないか?「事件」は、実にたくさん、既に起こっているはずなのである。

水の透視画法

辺見 庸 / 共同通信社

# by isaotoshimori | 2011-08-26 17:28 | アート

アートの査定!

「アートは感性の領域だから、物差しで計るように査定することは出来るはずは無い。」と思われるだろうが、実は出来る。(!?)

人物デッサンの場合は、
1、構図
2、プロポーション
3、明暗
4、立体感
5、肌(質感)
6、顔
7、アーティスティック-インプレッション
という具合に項目訳をして採点できる。審査する側だけでなく、描く側が1~7までを順番にチェックしていくことにより、よりうまく描くことが出来る。


ならばアートの場合はどうだろうか。
1、アイデア
2、行動力
3、技術力
4、共感する力、共感を呼び込む力
ここまでは個人の資質によるもので、状況を切り開いていく力。アーティストによっては、人や金の力でその能力を広げる人もいるが、ここでは個人に限定していく。作品の前提になる部分と言っていいだろう。
5、最重要課題、作品の完成度
そして作品がパブリックなものであれば、
6、コラボレーション力として、地元貢献度や人々との共感や夢、ヴィジョンを共有出るかというチェック項目が加わる。
これも観客がアートに査定を行うことも出来るし、アーティスト自身が制作に当てはめることが出来る。しかし、6まで到ることは実は難しいことで時間がかかることだ。


更にアートプロジェクトや美術館ギャラリーなども、査定することが出来る。
最もその仕事内容を単純化すると、
作品→観客を呼ぶ→金
となる。だから企業と同じく、目的は
1、観客動員数、入場料収入、売り上げ
である。しかし独立運営は少なく、地方公共から予算をもらい運営するため、
2、地元の評価、経済効果
は必要となる。
3、広報力(1を行うため)
4、接客力(1と2両方)
5、設備投資(観客の受け入れを行う、展示場、交通、飲食、宿泊など)
6、作家と観客を繋ぐ力(コミュニケーションや関係を保つ努力)
7、地元貢献度や、人々との共感や夢、ヴィジョンを共有出るかどうか
しかし、作品制作よりはるかに難しく、時間がかかることだ。


そのため、プロジェクトメンバーの資質が重要だ。
これもアーティスト同様に査定できる。
1、アイデア、ヴィジョン
2、行動力
3、共感する力、共感を呼び込む力
4、観客導線を読む力
5、柔軟な対応力
7、全体を見る客観と公平性
もちろん、丁寧な接客対応は言うまでも無い。
プロジェクト運営は、人対人なので実に複雑だ。より多くの協力者、作家との関係作り無しには、アートプロジェクトは成立しない。1人でこれら全ての仕事を抱えるのは現実的ではない。チームワークが大切だから、チームとしても査定も有効だろう。しかしアーティスト同様、個人力によるところが大きいようだ。結局、マンパワー、人間力というところは、対象がアートでなくても通じるのではないかと思う。


私が言いたい本位は、皆さんがこの方法を使って鑑賞し対応すると、もっと深く主体的にアートやアートプロジェクトに参加でき、批評する側に立てるということだ。自己批評も含めて。
「アートは専門家に任せておけばいい。」とか「良くわからないので、鵜呑みにしとこう。」という態度は、一見アートを尊重しているようで、実は消極的だった。結果、専門家の独断を許し、批評文化が育たず、作品鑑賞は言葉どおりとなり、コンセプトなど哲学的意図が理解されず、作品購買数は伸びない。

アート好きの人は、是非このような積極的な鑑賞をして、アートを盛り上げる一員となって頂きたい。そうなると、あなたは立派なアートの参加者だ。

このようなコツコツとした積み上げが無ければ、結局アートもアートプロジェクトも成功しない。結果を急いで権威や著名作家を呼んだところで、東北大震災地域に箱物をドカンと建てるようなもので、数年内に人が去っていくだろう。私も、今関わっている小豆島ARTプロジェクトに、早速この査定を当てはめるつもりだ。
(この文章は転載歓迎)

# by isaotoshimori | 2011-08-01 18:44 | アート

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