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自分らしさ

自分らしさ、とは何でしょうか?
誰と比べて、そう判断するのでしょうか?
それとも自分だけで、納得するものでしょうか?

アイデンティティーという英語があります。
例えばアイデンティティー・クライシスというと、自分が崩壊しそうな危ない状態、絵で例えるとムンクの「叫び」なんかがぴったりな状態でしょう。日本語になると、自己同一性という難しい言葉になります。以前、精神分裂病と言っていたものは、現在、自己同一性障害という言葉に代わりました。

自己同一性は、既に得ているものなのか?それとも自分で獲得するものなのか?私は両方あるものだと思います。自分であるために、自分の必要なものを探して、自分を満たす、ということだと思います。世界に一つだけの花であるけれども、咲くためにはそれなりに頑張らないといけない。自分で探す、頑張る、ということは、自分が主体だということです。

アイデンティティーを得るとは、自分らしく生きて行くと言い替えてもいいのではないかと思います。生得的に与えられたものを認めるのは、易しいことかもしれないですが、自分がどう生きたいかを追うことは易しくはない。むしろ大変なことですが、でも自分の人生は重いものです。

更に私たちは、その判断を自由にしていい環境に生きている。自分が言葉にし行動してもいいと認められています。自分らしく生きる権利を持つ、先人たちの、そう生きられなかった苦労の上に出来た、そんな素晴らしい環境がある。先人たちは、私たちを応援してくれているはずです。

私は教えもしていますが、教育に関しても、他から与えられるものでは無く、自分が主体的に身に付けていくものだと考えています。だから生得的に与えられたものだけでいい、世界に一つだけの花だからというのは、教育ではないと思いました。

そしていくら自由だからと言って、人を害していいはずがない。いじめは昔からありますが、それが当たり前になっていないか心配です。いじめられる側が非人間的扱いを受ける問題もさることながら、いじめる側に回る人間は、まったく自分を大切にしていないという大問題があります。人の不幸を楽しむことが自分らしさであるはずがない、自分らしさが人を不幸にするという話にはならない。訳もなく追随して振り回され、自分の幸福を追求出来ないことは、はっきり言って不幸だ。いじめに加担することに時間を費やすのは、最も無駄な時間の使い方です。

少しでも自分らしさを伸ばし、幸福になる。だから自分が主体であり、自分らしさを追求することは、大切な考え方だと思います。
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by isaotoshimori | 2017-03-19 11:32 | 日日に

相模原の事件

相模原の事件は、長男が発達障害を持っている我が家族にとっても、衝撃的だった。妻が心を痛めていることは、憤りだけではなく、世間に迷惑をかけ頭を下げながら生きていかなければならない、といった無言の低下圧力にもなっていた。

なぜか?世間には本音と建前があり、ほとんどの人間は実は障害者を迷惑な存在だと思っている、それが現実だと彼女は言う。これは疑心暗鬼だろうか?私も、世間ではそのような考え方は根強いと思っている。今、通っている保育園の対応からさえ、その空気が読める。しかし私は、まったく卑下する必要は無いと思っている。これは人権の問題より前、命の問題だからだ。

加害者は、未だに反省の弁を持たない。日本のためにしたことだと主張している。いかなる理由があろうとも、他の命を排除することは正当化出来ない。行き過ぎた自己愛、肥大した自己肯定、傲慢という言葉はまだ生易しい。自らは優れ、他は劣っているとし、排除するべきだという論理は、自らが神だ、と公言するに等しい。異常であるか、非常に幼稚であるか、どちらかだ。

被害者遺族が書いたコメントの中で、気になる言葉として、この国は優性思想が根強く、、、であった。優性思想を持つ、それは劣ったものは迷惑な存在であるとすることと同義だ。人間、優劣、損得、比較合理から生まれる意識は根強い。だから、仕方がないというのではない。

踏み込んで言うならば、優性思想は劣等意識とも分かち難く結びついている。優性思想を持つ人間は、裏腹に強い劣等意識を抱える。その捻じれた関係から、優性意識はバイアスが強くなり、現実を直視できなくなる。そして容易にバランスを崩し、モンスター化する。
自己愛、自己肯定とは誰もが持っているもので、そのようになる可能性は誰にでもあるという警鐘でもある。他に対する攻撃性は、劣等意識の裏返しと言えば、他の悪口を言ってすっきりしている人はドキッとするのではないか?我々は皆モンスターを飼っているという事実と同様、物事には両面あり、一面に偏るというのは、実は弱いという事実がある。

偏りは、どこにでも転がっている。
匿名ネットサービスに対する圧力は、内部告発を押さえこむためでもあるだろう。安保法案を推し進める背景は、関連産業が大きく成長することや利権もあるのだろう。円安だけがいいという訳ではないそうだが、円安誘導が続き借金は莫大に増えた。そもそも母数が減少しているのに、変わらない経済成長という目標自体が偏っていると言えないだろうか。私が最も大きな偏りと思えるのが、戦後レジーム脱却として、敗戦劣等国から強い優性国へと急展開する思想。
大きな話のようだが、個人の意識と集団の意識は地続きだ。この国は優性思想が根強く、、、これはそういう意味でも、とても気持ちの悪い感覚を受ける。

優性思想は、抜いた刃で、他の命を排除する。こういうことが事実起こったとも言えるだろう。
多くの場合、排除は弱きをくじき、自らの弱さを穴埋めする卑怯。どんなに論理武装しようとも、排除される側に自分はいないからだ。自分を棚上げにする限り、現実の直視は出来ない。だから、排除する人間より、受け入れる人間の方が強い。弱さを隠すために虚勢を張るより、認めて反省できる方が真直ぐ歩ける。

いずれにしても、偏ったものには必ず反動がある。命の軽視は、自らに向かう。
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by isaotoshimori | 2016-08-27 11:29 | 日日に

スピリッツ

大地を踏みしめ、そこから伝わって来たエネルギーが人々の声としてほとばしるような、スピリッツに触れたのは久しぶりのことだ。台湾で貰ったCD「Mystic Chants of the Bunun」は、布農族と言われる部族、原住民と呼ばれる台湾に太古くから暮らしている人々の歌を集めたものだ。ゴスペルにも似ているし、ウォー・クライにも似ている。

台湾にはそのような部族がたくさん住んでいる。台湾、対中震災の1年後、台湾に滞在した私は、少なからず色々な部族の暮らしに触れた。経済的なものでは無いけれども、彼らの暮らしぶりからは何かしら豊かさを感じることが出来た。あれから15年、歌い手は世帯交代したかも知れないが、彼らはまだ歌い続けているに違いない。アーティストは欧米を目指す人が多いが、私は生々しいスピリッツに触れる機会が持てて、逆に幸運だったと思った。

私は少し変わった経験を持っている。幼い頃四国巡礼を、青年期まで4回もした。スピリッツに対する私の思いは、そのことが影響しているらしい。ギリシャ正教の聖地アトス山も訪ねた。曹源寺蝋八大接心にも参加した。その後浄土真宗の坊主になったこともある。今は落ち着いて普通のオヤジだが、今回共通するものがあると感じられた。自分が大地であり、大地が自分なのだ。残念ながら、その思いを直ぐに忘れてしまう。

スピリッツは、大きくおおらかで優しい。スピリッツは、祝祭であり祈りであり、元気だ。しかし最近気になる話題を聞いたことがある。ある盆踊りでは、ヘッドホンをして無音でするところがあるらしい。なんと「騒音の苦情」が来るからだそうだ!この国のスピリッツはどうなってしまったのだろうか?

そして富と命の奪い合いは、そのようなスピリッツと反するものだ。この国のトップは、また当初のように「景気」「経済最優先」と喧しい。万人受けするからか?またしても、我々はその言葉にコロリと参ってしまうのか?Win ×Winの関係で、それほど儲かることはない。どこから何で設けるのか、この流れから考えると軍事関係か?祈りや優しさとは反対の、暗さが拡がっていく。
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by isaotoshimori | 2015-09-23 10:39 | 日日に

奇妙な果実

「奇妙な果実」というジャズの名曲があることを御存知だろうか?哀切に満ちたメロディーで、静かに悲しみが迫ってくる。「奇妙な果実」とは、朝になって木に吊るされた黒人のことだ。夜のうちにおそらく覆面をして、「生意気な」黒人を集団で吊るし上げる。おぞましい集団リンチ殺人だ。けれども、かつてのアメリカには実際あった。

今回のロゴ事件に関して、色々な人に意見を聞いてみた。あのロゴは実際によくないと感じたと言う意見と共に、ネットの恐ろしさを感想にする人が多かった。確かによく調べていると私も思ったし、コネコネ権力村の一角を崩したことは賞賛すべきかもしれない。しかし個人攻撃であること、一方的であること、責任が攻撃する側に生じないこと、個人が特定できない匿名集団がそれを行ったこと、これは奇妙と言うより奇怪な現象だ。

話を元に戻すと、差別、いじめは別にアメリカに限ったことではない。日本にも、今でも根強く存在する。部落差別、ハンセン氏病隔離、外国人排斥運動、それらは大概、好き嫌いや優越感と言った生理的なものと分かち難く結びつき、「周りがそう言っているから、そうする。」と言うように、中身を理解せず、対話が無く、一方的だ。肌の色が黒いというだけで、そこに住んでいるというだけで、病気が身体に及ぼす外見だけで、日本人じゃないと言うだけで、生意気だ偉そうだと感じるだけで、それが起こる。しかし差別に加担した側に改めて問うならば、そんな非人間的なことをするはずが無いと答えるか、みんなしているじゃないかと責任転嫁する、薄い罪の意識があるだけだろう。

これを集団による加害と例えるならば、最悪なものが戦争やテロだ。日本でも、やはり戦争のことを忘れてはならないし、繰り返さない努力をするべきだ、というのはどなたにも頷いていただけるだろう。その原因について、当時の政治家軍関係者に責任があるということになっている。だが、なぜ一般民衆が扇動され、終には最後の一人になるまで戦うというところまで「洗脳」され、とてつもない数の犠牲者が出るまで引き返すことが出来なくなったのか?選民思想、日本人は他の国より優秀で正しい、他の国を支配するべきだという思想に、多くの人が同意し或いは同意せざるを得ない状況が作られていたからではないか?集団心理というものは、恐ろしいものだ。中東の「国」を名乗る覆面集団も含め、差別や戦争も、一方的で匿名で対話が成り立たないという共通する構造を持っている。そこでは決して、個人の意見や立場が尊重されることは無い。戦争当時の生々しい記憶を持つ人がまだ残っているうちに、公的機関はその原因を記録して保存して頂きたいと願う。ドイツは、ヒットラーになぜ人々がそこまで扇動されたか、分析し記憶を保持している。

今、少数の意見がとても大きく扱われたり、個人の言い分が集団の言い分にかき消されたり、会社や個人が攻撃対象にされることをひどく怯え、心を閉ざして行っている。お互いに顔が見える関係同士ならば、私は少しも悪いことはしたことが無いと、胸をはって言える人はまずいないだろう。だからお互い様、おかげ様という、平和でおおらかな付き合い方が出来る。お互い顔の見えない匿名集団は、当人たちも歯止めが利かない「諸刃の剣」に思えて恐ろしい。人の悪いところを論い、みんながびくびくして個人の意見の言いにくくなり、お互いが信用できない世間が生まれた時、「単純で魅力的な思想」に多くの人々が一斉になびくかも知れない。そうなると、ますます個人の意見が封殺される社会が出現する、今回一番心配なのはここだ。
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by isaotoshimori | 2015-09-11 15:00 | 日日に

曹源寺

曹源寺、ご住所原田正道氏にお会いできたのは、大きくそして真摯なお人柄に触れたのは、久しぶりにうれしい出来事だった。それにしても無沙汰につき、我が身の怠惰に恥じ入る次第。曹源寺は、今や禅の国際道場として全国でも貴重な存在になっている。外国人修行僧が入山を待ち焦がれ引っ切り無しに訪れるし、ご住職はそれぞれの国で独立した弟子の寺で指導するために、海外を飛び回っている。発展されて、真実素晴らしいと思う。しかし当の本人は、「師匠の禅の国際化という目的を引き継いだだけ。当たり前のことを当たり前にやってきただけ。周りが変わっただけ。」と飄々と言ってのけるに違いない。

「当たり前のことを当たり前にやり続ける」精神力の、難しさを思う。高校時代から時々訪れていた曹源寺だが、外国人に触れる機会の少ない岡山で「ヒッピー崩れの集団」だとか「外国人ばかりで日本人の修行僧のいない変な寺」だとか揶揄する人は少なくなかった。また宗門からも異端視されていただろうし、営業活動らしいこともせず一途に修行に専念するスタイルを貫いていたからだろうか、敷地面積の広大なお寺を維持するためご苦労されたことも聞き及んでいる。

曹源寺は、外国人修行僧で盛り上がっている。鎌倉期より、日本人の根底を支えた禅文化が、外国人によって支えられているとしても、これはこれで「グローバリゼーション」なのかもしれない。
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by isaotoshimori | 2014-03-15 12:56 | 日日に

草枕

智に働けば角が立つ。状に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は生きにくい。住みにくさが高じると、安いところに引き越したくなる。どこに越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。夏目漱石「草枕」の冒頭です。

現在、東京で草枕生活しているのですが(もちろん野宿ではない)、最近この文章がどうしても気になっていまして、本を買いました。漱石曰く、近大は自由な自我(エゴ)を獲得することと引き換えに、内面的孤独を持たざるを得なくなった、そうです。

エゴは、良いも悪いもなく、生まれてから死ぬまで引き受けて行かざるを得ないものです。近代以降、エゴはどうなっていったのでしょう。ますます剥き出しになって、ますます孤独の闇が深くなっていったのでしょうか?件の惨禍も、巨大なエゴイズムが産み出したと言えなくもないのでは?

私の作品のテーマは、水であるとともに、エゴでもあります。水はニュートラルな存在であり自然ですので、対照的に浮かび上がるものは、自分を含めた「エゴ」の存在なのです。
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by isaotoshimori | 2013-09-18 11:15 | 日日に