「Pleasant Days」 Isao Toshimori project in Taiwan 2000

2000年に行った大昔の作品ですが、思い切って公開します。私にも振り返るのにためらう過去があるのですが、戦争経験者がつらい過去に向き合って、懸命に悲惨な経験を伝えようとしていることに背中を押されました。その台湾で2000年にインタビューした映像には、12人の年配者の、台中地震、戦争、若者に伝えたいことが、日本語で収録されています。少々長いので、気楽に見てとはいえ無いのですが、よろしければご覧ください。
https://youtu.be/pkQgCGtwoHM
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# by isaotoshimori | 2015-08-07 11:03 | アート

仏者のことば

「閉じてしまう。」と早々行き詰るもので、そういうときに触れてうれしいのは、仏者の言葉。厳しく深みを持った言葉が、もやもやをバッサリと断つ、そんな言葉に出会った時がうれしい。

安田理深集 上 P183
―「ものが死ぬということは、形がなくなるのではなしに、形だけになることである。仏道の死とは、いってみれば現代というものとの距離ができることである。現代の問いに対して、仏道が答えにならなくなった。別のことをこたえている。問わないことをこたえている。この「answer」と「question」とのあいだに距離が生じたことを滅亡というのである。」―

現代仏教界に対して叱責する言葉だが、そこには仏教に対する責任と悲がある。仏道という言葉を、会社や大学やもろもろの組織の名前と置きかえたら、一般的にも読める。ピシリと叱られる、それをうれしいというと誤解を受けそうだが、「そうだった。」と頷ける時、そういう経験が自己批判になり、自分だけではない世界を開いていく。これは有り難いとしか言いようが無い。

作品を通して遣り取りをしている、ご住職の手紙の一節
―「私にとっての雪舟は未だに難解です。あなたはこの素直さに開眼なさったのでしょうが、私にとってはまだまだ遠くに感じます。例えば「秋冬山水図」を理解しようとどれくらいの時間を費やしたかを思い出します。翻ってみれば、これほど飽きない絵もありません。この絵を見てどう思うかと尋ねられれば、「う~ん」としか答えようがありません。こんな絵があるのかと思い、その絵の中に解明しきれない私の心の様が的確に切り取られ見せ付けられているように思えるのです。つまり解明しきれないままの姿だけが求められている心象として具現化しているように思えるのです。この絵の持つ、論表無用のなんという心地よさなのでしょうか。」―

「論語読みの論語知らず」のたとえの通り、あなたは雪舟のことを良く知っていますか?と問われている様で、汗が出てくる思いがする。専門とし仕事としている人間が持つ特有の油断とか驕りとか、批判的立場であったはずの自分が、ではあなたは出来ているのですか?と問われると必ず否定できないところが残る。このような言葉に出会うときは、頭が下がる。私は愚かだったと。それが立ち上がることになる。
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# by isaotoshimori | 2015-06-17 11:33 | 学び

雪舟を訪ねる

今回の旅は、しみじみと沁みてくるといった趣。その感動を備忘録として書き留めておこうと思い、したためる。

雪舟は510年前亡くなった。中央でそれほど活動しなかった。山口を中心に放浪を繰り返し、没したのは山陰島根の西、益田市。人生50年と言われていた時代、46,7歳で京都を離れた。日明船の権利を持つ大内氏を山口に訪ね、明で水墨画の奥義を吸収する強い思いがあったため。帰日後も、応仁の乱以降の戦乱を避け、京都には戻らなかった。名聞利養ではなく、自身の画業を第一とされたという感じである。益田市は美しい里山風景が残る町、逗留期間も長く作庭も含め傑作が多く生み出されている。我々が訪ねたのは益田市と防府毛利博物館。

高梁から新見を抜けて出雲へ、そして益田へ。道中は雨に煙ふる山々に霧がかかって、まさに水墨画の世界の中だった。日本人の気質や情と湿度の関係について、我々は話をした。若い頃、ウェットな感じは余り好きではなかった。最近は子どもが出来たせいだろうか、むしろウェットな感じがしっくり来る。

出雲大社の境内には、豊かな自然の姿がある。絶えず、後ろの山から新鮮な水気を含んだ空気が流れ込み、水が流れている。水墨画も豊かな自然の姿を映す。霧がたゆたい、川が流れ、雪が積もり、まさに画から水が滴るが如くの世界に思えた。そう、日本の豊かな自然は湿潤だ。そして自然をつぶさに捉えようとする、繊細で豊かな感受性も、湿潤な人間性から生まれているような気がする。日本の自然に育まれた日本人なら、そうであっても不思議ではない。日本人の自然観、それが元になっているのだ。

それと共に、観ようとしなければ、少しもその姿を現してくれないのも自然である。雪舟の、禅僧でもある厳しさに相応して、自然観は豊かに広がっていくのだろう、「山水長巻」という晩年の傑作は横幅16mにもなった。揺らぎの無い「硬く枯れた」描線にも、自然との一体感を感じる。巨人である。その自然観も、深く広く圧倒的だった。

物質の豊かさと、自然への豊かな感受性を引き換えにしてしまったか?
痛ましいことが続き、いつの間にか心が乾いてしまったのだろうか?
山陰の旅は、そのような当たり前でありながら、かけがえの無い「自然」と、その豊かな水の世界を思い出させてくれた。
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# by isaotoshimori | 2015-04-10 15:45 | アート

プライベート・ユートピア ここだけの場所

久しぶりに岡山県立美術館に行った。巡回の現代アートコレクション、タイトルは「プライベート・ユートピア ここだけの場所」。一見地味だが、それぞれ「噛めば噛むほど味が出る」と言った作品揃い。さすがブリティッシュ・カウンシルのコレクション!

別に派手で大きな作品でなくても、十分評価される土壌があると判った点、ブラック・ユーモアや、それぞれの個人的な世界観から紡がれる「物語」は、アートの大切な持ち味であるという点、収穫だった。「おしりをバットでぶっ叩いて、どっかん!」という笑いも好きだが、ブラック・ユーモアのじわじわ沁みてくる笑いも面白い。映画祭でも、ハリウッドとカンヌでは趣向がかなり違うのだろう。アートフェア会場で早朝動物を放してその行動を追いかけたり、隕石を熱してイギリスの地図を焼いたり、イギリスもまた魅力的に辛辣だ。

こういった現代アートに抵抗を持っている人に、こういう見方はいかがだろう。知的ゲームを楽しむように、現代アートを見るというやり方。子どもが「なぜ?なぜ?」というように、「何を考えているの?」「どうしてこういう表現をしたの?」と思うと、その作家の考えや環境が少しずつ入ってくる。我女房も「わからない。」とか「考えるのがいやだ!」とか言っていたが、どうも大人は色々先入観があって子どものように素直に「なぜ?」と思えないのかも知れない。でも作家の背景、作品の背景は、どうなのだろうと好奇心を湧かせてほしい。社会は様々な考えを持つ人がいて、色々な階層があって、作品を通して我々が暮らしている日常とは違う世界を垣間見せてくれる。知的好奇心は、自分の意識に新鮮なものを吹き込んでくれる。知的エンターテイメントとしての現代アート、いかが?
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# by isaotoshimori | 2015-01-16 16:49 | アート

パロディーについて

昨今有名なものに便乗して、ちょっとアレンジして「ああ、あれね!わかるわかる。」みたいなノリで、安易に受けるんじゃないかと思ってパロディーを使う人、増えていませんか?まあ休み時間必ずそういうネタで、人気者になっている中高の学生はいました。そんな軽いノリだから軽く流して、ということなんでしょうかね。

パロディーは冗談から本気までレベルがあると思うのですが、広告宣伝でする場合やプロの場合、一般の方々に面白がられる一方著作権侵害としてきっちりツケを払わされてしまうことがあります。(ちなみに、うちの女房が仕事でしている「ザグザグCM」に関しては、アイデアは当方のものではありませんので、とあらかじめ責任逃れ申し上げておきます。笑)

パロディー作家、マッドアマノ氏も裁判になってしまいました。雪山の写真を撮った写真家白川氏が、その写真に大きなタイヤを転がしたマッドアマノ氏を訴え、マッド氏の有罪。パロディーにもオリジナリティがあれば作品として成立するのでは?と私は思っているのですが、その当初パロディーにはそれほどオリジナリティは認められていませんでした。

もう一人は日本を代表する「パロディー作家」、赤瀬川原平氏。現代ではアートの世界ではそのように他のものを取り入れて作品化することを「アプロプリエーション(盗用)」と言い、権利を主張出来るようになっています。(しかし裁判は格段に増えているようです。)だからアプロプリエーション作家、赤瀬川原平氏と言った方がいいかもしれません。赤瀬川原平は、なんと1000円札を作品化しました。に対して、警視庁が紙幣偽造の罪を問い、裁判になりました。1000円札をモチーフにして流用する方法は、ぎりぎりの線を突いたみごとなアプロプリエーション作品ですが、やっぱり有罪。しかし「東京ミキサー計画」という名著で、アートと法律の立場の違いを明らかにしていました。アート史に残る事件です。(余談ですが、有罪にならなければ、アートを騙る連中が今頃精度のいいコピー機でじゃんじゃん偽札を刷っている事態になっていたかもしれません。)

私も大好きな作家ですが、美術手帳には「資本論」のパロディーを展開、余りに舌鋒が鋭すぎて「本当だと思い込んだ人がいた。」とかで、すぐに休載!すごいなと思うのは、パロディーにする相手が、恐れ多くも「お上」であることが多いのです。でも例としては、中世から庶民に流行る歌や落語、近代からは風刺漫画の存在がありました。批判を潜ませ面白可笑しく皮肉るのは、パロディーの真骨頂かもしれません。自己批判も含めて、対象さえ「にやり」とさせる、或いは「はっ」とさせるのは、すごくハイセンスな作業でしょうね。
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# by isaotoshimori | 2014-10-25 12:01 | アート