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小川巧記氏の死を悼む

先月、小川巧記氏が不慮の事故で亡くなった。彼の代表的な仕事は、愛知万博「愛地球博」と、横浜Y150博のプロデューサーである。切り口は「市民参加」、市民主体で興す創造、社会的事業を盛り上げる仕事だった(ざっくり過ぎるまとめ方をお許し頂きたい。)。私は横浜Y150博でお世話になった。「また、お話したい。」とおっしゃられていたのに、その機会は永遠に失われてしまった。

彼のした仕事は、未来にとってはなくてはならない仕事だったと思う。3.11震災以降のNPO、NGOのめざましい働きは、今や社会に必要不可欠なものとされている。それを思うに付け、彼はその一翼を十二分に担ってきたのだと確信する。

「市民参加」は難しい仕事だ。その難しさは、横浜Y150博の期間中私も十分感じることが出来た。彼らエージェントたちは、市民一人一人と公平に、辛抱強く向き合い、しかも十分な後押しを行っていた。

彼は、過去の万博を「国家の力」、「企業の力」を見せるためのもの、これからの万博は「市民の力」を見せるためのものと見事に切り取っていらっしゃった。しかし「国家」、「企業」に比べて、「市民」自らプレッシャーと向き合い、自発的にブラッシュアップしていくことは難しい課題だ。それを支援するには長期にわたる取り組みが必要で、博覧会という短期的評価もまた難しい。市民一人一人の成果を、どう数値化しどう評価できるというのだろうか。 困難で評価も受けにくいがどうしても必要な仕事、これからますます必要になる仕事だろう。彼のした仕事がもっと評価され、彼のような人材が更に活躍することを祈りつつ、小川巧記氏の早すぎる死を悼む。
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by isaotoshimori | 2012-09-01 18:45 | 忘れえぬ人々

「旅人の迷路」、大地の芸術祭12年目に初めて語ること

「旅人の迷路」について「これだけは言いたい。」ということをまとめた。

「旅人の迷路」で行ったことは、歴史のアッサンブラージュ(引用、貼り付け)であり、「古代の迷路」と「これから生まれる森」を、芸術行為として組み合わせたものだ。我ながら大それたことをしてしまったとは思う。「古代の迷路」と「これから生まれる森」が、長い年月を得て「縄文の」「大地の芸術祭としての」オマージュとして、今後成立していくことを切に願う。

歩いて、その人の身体を通して、わずかにでも「自然」や「古代」の何かを垣間見ることが出来たら、それが迷路を選択した理由だ。また、この地方で出土した国宝の火炎土器の文様と、この迷路の形象の類似性を持っている。

また、森を生み出す必要性について。この地方、どこを見回しても立派な田園や森があるので、わざわざこれから森を作ることは、地元の人にも来客にもほとんど理解されなかっただろう。「新しい森」は、「大地の芸術」という意味のためにこそ、これからの哲学=「梅原猛さんの縄文の思想」のためにこそ、必要だと思う。今の時代、「大地の芸術」とか「縄文の思想」とか言っても、薄ら寒いだけなのだろうか。そうでないことを祈りたい。

中央の坪、迷路の到達地点には、
「時に停まり 時に踏み越え 迷うも振り返らず 歩き続け 今 此に 到る
誰か知る 我 行先を 唯 道行に 幸 多からん事を」
という文面を載せている。
「踏み越え」という一節について、原発事故が起こった今だからこそ言えること。我々自身が多くのものを踏み越えてきたのだということ、我々が踏み越えたくなくても踏み越えざるを得ない時代に暮らしているのだということ、「赤信号が先に点灯していても、アクセルペダルから足を放せない。」社会をそれでも続けていっていいのか?ということ。

そうならないことを願う。「大地の芸術」が意味するものが、「祈り」であれば。
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by isaotoshimori | 2012-09-01 18:42 | アート