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仏者のことば

「閉じてしまう。」と早々行き詰るもので、そういうときに触れてうれしいのは、仏者の言葉。厳しく深みを持った言葉が、もやもやをバッサリと断つ、そんな言葉に出会った時がうれしい。

安田理深集 上 P183
―「ものが死ぬということは、形がなくなるのではなしに、形だけになることである。仏道の死とは、いってみれば現代というものとの距離ができることである。現代の問いに対して、仏道が答えにならなくなった。別のことをこたえている。問わないことをこたえている。この「answer」と「question」とのあいだに距離が生じたことを滅亡というのである。」―

現代仏教界に対して叱責する言葉だが、そこには仏教に対する責任と悲がある。仏道という言葉を、会社や大学やもろもろの組織の名前と置きかえたら、一般的にも読める。ピシリと叱られる、それをうれしいというと誤解を受けそうだが、「そうだった。」と頷ける時、そういう経験が自己批判になり、自分だけではない世界を開いていく。これは有り難いとしか言いようが無い。

作品を通して遣り取りをしている、ご住職の手紙の一節
―「私にとっての雪舟は未だに難解です。あなたはこの素直さに開眼なさったのでしょうが、私にとってはまだまだ遠くに感じます。例えば「秋冬山水図」を理解しようとどれくらいの時間を費やしたかを思い出します。翻ってみれば、これほど飽きない絵もありません。この絵を見てどう思うかと尋ねられれば、「う~ん」としか答えようがありません。こんな絵があるのかと思い、その絵の中に解明しきれない私の心の様が的確に切り取られ見せ付けられているように思えるのです。つまり解明しきれないままの姿だけが求められている心象として具現化しているように思えるのです。この絵の持つ、論表無用のなんという心地よさなのでしょうか。」―

「論語読みの論語知らず」のたとえの通り、あなたは雪舟のことを良く知っていますか?と問われている様で、汗が出てくる思いがする。専門とし仕事としている人間が持つ特有の油断とか驕りとか、批判的立場であったはずの自分が、ではあなたは出来ているのですか?と問われると必ず否定できないところが残る。このような言葉に出会うときは、頭が下がる。私は愚かだったと。それが立ち上がることになる。
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by isaotoshimori | 2015-06-17 11:33 | 学び